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酒、蕎麦、芝居
河竹登志夫
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大江戸の雪の夜。
舞台は吉原のさんざめきをよそにひっそりと立つ、一見の小さな蕎麦屋。そこへしのんできたおたずね者の直侍こと片岡直次郎が、あるじに小声で言う。
「天ぷらで一合つけてくんねえ」
「あいにく天はやまになりました」
「なけりゃあ、ただのかけでいい」
盃のごみを箸の先でチョチョッとはじいてのむ、わびしい酒。 ただ、この場だけは、小道具でない本ものの蕎麦を食べなければ、庶民生活をリアルにえがく生世話物の味が出ない。
河竹黙阿弥の名作「河内山の直侍」の「入谷村そば屋の場」。十五代羽左衛門の直侍が天下一品だった。戦時中、この一幕の羽左のために、取締りの目をぬすんで蕎麦をとどけつづけた蕎麦屋さんがあったという。
食べ終わって外へ出た直侍は、ばったり仲間の暗闇の丑松に逢う。が、たがいに追われる身、すぐ別れなければならない。
「長い別れになる二人、どこぞで一杯やりてえが」
「町と違って入谷じゃあ」
「食いもの店は蕎麦屋ばかり」
「天か玉子抜きでのむのも、しみったれな話だから」
「祝いのばしてこのままに、別れて行くもふる雪より…………」
二人はそのまま、ふりしきる雪のなかを別れて行く…。
しかしいつもこの場へくると、酒好き蕎麦好きの私としては、曾父母ながら作者の黙阿弥に文句が言いたくなる。どうして二人に蕎麦屋でのませてやらなかったのだ―と。昔から蕎麦屋の酒はいいときまっているし、のんだあとの蕎麦くらいうまいものはないんだから。でもそれじゃあ芝居にならねぇと、叱られるのはわかっているのだが。
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河竹登志夫 (かわたけとしお)
早大名誉教授・演劇研究家
1924年東京生まれ。著書に「比較演劇学」 「歌舞伎美論」 「河竹登志夫歌舞伎論集」
「黙阿弥」 「作者の家」、随筆集に「酒は道づれ」 「人生に食あり」 他 |
句や歌の中の蕎麦(四)
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